2022年3月30日 仏教講座 幸せは心の内にある 僧侶名倉幹先生 60分
テーマ 「幸せは心の内にある」
◆中之島聞法会
◆場所 中之島中央公会堂
◆講師 僧侶名倉幹先生
◆日時 2022/3/30 18時30分
◆内容
人間の歴史を紐解くと絶え間なく争いをしている。ロシア・ウクライナ戦争も同じ。我が国も中国(尖閣)・ロシア(北方領土)・北朝鮮・韓国は同盟国なのになぜか反日・・・。国同士も人間関係とはなかなかうまくいかないものだ。 夫婦も親子も同じ、なんらかの不満や複雑な問題を抱えている。これは特別なことではなく、みんなそうだということ。もちろん稀に仲の良い夫婦もいるだろうけれど・・・。 たとえ人間関係は良くても大病を患っているとか。心の病を抱えているとか、人間は常に問題を抱えながら生きているということをお釈迦様が言っている。 お釈迦様は、人間は四苦八苦という苦労を抱えながら生きているといっている。生きている限り、争いも、苦労も、病気も、死も、苦は無くならないと考えていた。 なぜだろうか? それは、人間は煩悩を持っているからだと。煩悩とは、自分の思っているように生きたい。自分の都合のいいように生きたいという考えのこと。 自分にとって都合の良いように生きるとどうなるか、自分の都合のいいことは相手から見ると都合が悪いということが多い。お金の取り合い、土地の取り合い、嫌なことは相手にさせる。いくらでもネタはある。 そして思い通りにいかないと、「なんでや・・・」と怒り狂う。そして相手とぶつかり喧嘩に発展する。これが争いの原因であり、これが国単位になるとロシア・ウクライナのような戦争になる。これを宿業という。 身近な夫婦関係を例にとってみる。今3組に1組は離婚している。ということは、30%はお互いの煩悩によって、自己主張をしあって喧嘩して別れる。現実は離婚できない様々な背景で、離婚は踏みとどまったが、家庭内は口も利かないという仮面夫婦も結構いる。現実は、半分の50%ぐらいは人間関係で悪戦苦闘している夫婦がいる。 それ以外にも、職場の人間関係、仕事の悩み、金銭の悩み、健康の悩み、上げるときりがない。お釈迦さまは人間はみな、なんらかの苦労や問題を抱えてい生きているといっている。 そこで、なぜ苦しんでいるのかという原因を見極めておく必要がある。 その答えが仏教の中にある。だから悩みのない人、苦しみのない人にとっては、もはや仏教は学ぶ必要はない学問であるということ。逆に言うと苦しみのある人や悩みのある人にとっては、仏教を学ぶ価値は十分に有るということ。いや学ぶことで救われるということ。 苦しみの原因とは何か。「このことさえなければ幸せなのに・・・」という考え方だ。 嫌いな旦那がいなければ幸せになれたのに。給料の多い会社に入っていれば幸せになれたのに。相手がもっと気遣ってくれれば幸せになれたのに。病気になりさえしなければ幸せになれたのに・・・。等々、こういう思考回路が苦しみの原因だということ。 この考え方は、全て矢印が自分ではなく相手に向けているということ。自分の不幸は自分以外の人のせいだと考えること。その考え方が、幸せになれない一番の原因である。 不幸の原因は全て自分以外の人にあると考えている。本当は、全て自分が招いたことなんだという理解と解釈ができないから、いつまでたっても不幸の責任を、自分以外の誰かに向けている。それが自分の幸せを奪っていることに全く気づいていない。 すべては因縁の世界 身の回りに起きることは、全ては必然なんです。誰かのせいではなく、これは自らが起こした結果だと解釈する。自分が今までにしてきた行動の結果として現れた現象であるということ。 自分以外の人のせいで、私はこんな苦労していると考えることが自分を不幸にしている。自分の外に原因を求めることを「愚痴」という。 妻を自分の思い通りにしたい。いうことを聞かなければ暴力を振るう。自分の勝手な本能が妻を傷つける。妻という文字を相手国と書き換えると、戦争ということになる。 煩悩とは自分の心の中に棲んでいる。その煩悩をどう制御すればいいか。 3つの煩悩「三毒」 貪(とん)、貪欲さのこと。思い通り生きたいという欲望。 瞋(しん)、怒りや憎しみ。思い通りいかない事へのいら立ちや怒り。妬み、憎しみ。 癡(ち)、無知・無明のこと。知識や教養があれば簡単に解決できるが、知識や教養がないと対処できない。無知ほど怖いものはない。 煩悩は人間はみなが持っているもの。そしてこの煩悩をプラスのエネルギーに変えると大きく成長できる。 煩悩や欲望はこのようにプラスのエネルギーとして使うといいが、煩悩というものを理解できていないと、制御できずに相手を傷つけ、自分をも苦しめるという、もろ刃のやいばとなってしまう。 先にも述べたように、煩悩は決して悪だけではない。その証拠に、人間全員が持っている自然の本能だからであるから。全員に備わっているということは人間にとって必要であるという証拠だ。 しかし煩悩というものそのものを学び理解していないと使い方を間違う。我々は長らくこの人間の“本質”である煩悩の仕組みを学び真理を学んできた。そして煩悩を必然として受け入れ、煩悩に左右されない生き方ができるようになった。もちろん完全ではないが・・・。 その解決法の一つとして静坐は大きな効果がある。 静坐は、上は虚にして下は実にする。すなわち上、頭は空っぽにして、下、丹田には肚を据えるということ。静坐を毎日続けると、煩悩を抑る効用が出る。 聖徳太子「世間虚仮、唯仏是真」 世の中というものは当てにはならない。どうなるかわからないということ。事故で命を落とすかもしれない。戦争が始まるかもしれない。国も、政府も、会社も、親も、当てにならないよということを世間虚仮と言っている。 唯仏是真、ただ仏のみが真実だと。だから仏様が目覚められた世界を私たちも目指していこうというもの。 すべては因縁の世界 人間も世の中も全ては因縁の世界。すなわち関係性によって成り立っている。宇宙の始まりから、すべては何らかの関係性(因縁)によって生かされている。人間も自分の力で働いて、給料もらって、食料を食べて生きていると思っているかもしれないが、その食料は農家さんの努力もあるが、それ以上に野菜などは、土や、水や、空気や、太陽の光や、色んなものとの多岐にわたる関係の中で育ってきた。 生きとし生けるものはもちろん、地球も、宇宙も、全ては関係性(因縁)によって、互いに支え合って、全体が大きな命の循環として生かされていることに気づく。 自分は一人では生きていない。周りの人々も、空気も、土も、光も、すべての因縁によって生かされていると気付いた時、心の底からその大自然の不思議さに感銘し、また今ここに命をいただいて生きていることに幸せを感じる。 あらゆる因縁の中で生かされていることに気づいたときに、自然と首を垂れる気持ちになれる。このような自然の循環(因縁)の摂理が理解できると、煩悩は自分のために使うのではなく、自分以外の人や自然のために使いたいと思えるようになる。 今ここに生きているだけで幸せだと感じられる 因縁(関係性)によって自分は生かされていることに気づくと、たとえどのような苦しい環境にあろうとも「今ここに生かされている」あるいは、今死ぬようなご縁に出会ったとき、それをそのまま受け入れる。「何かのためにこの命を捧げる」ことに喜びを感じることもあるかもしれない。 幸せは先に行けば見つかるのではない。今ここに、すでに幸せがあることに気づくだろう。 山口益「後生は助かることはない」 事故で急に死に直面したとき。「今死んでも私は申し分ありません」と言い切れるだろうか。 今、私は本当に幸せだと言い切れる生き方こそが大切だ。 論語に「朝に道を聞けば、夕べに死すとも可なり」 朝に人としての大切な道を悟ることができれば、その晩に死んだとしても心残りはないという。 これからもしっかりと真理を学び続けたいと思う講義であった。
以上