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2022年6月2日 妙好人因幡の源左 「 ほんものの慈悲とは」 仏教講座 僧侶名倉幹先生 90分

人間の森大学 仏教講座

◇講師 ニューヨーク在住 僧侶 

◇名倉幹先生 テーマ 「因幡の源左 ほんものの慈悲とは何か 道徳と慈悲の違い」

◇概要

 因幡の源左さんの無限の豊かな世界に触れた。 人間界においては人に施しをすることや、人のお役に立つことは正しいこととされている。これは人間界においての道徳観念であり、すなわち人間という集団における価値観である。 仏教でいう慈悲の世界観は人間界という次元を越えたところに世界観がある。 源左さんの芋畑に盗みに入った泥棒が芋を盗もうとしていた。そこに出くわした源左さんはそっとその場を立ち去り自宅に帰ってしまう。 自分の畑で作った柿の木に、息子が泥棒に盗られないようにと柿の木の幹に茨を巻き付けた。すると源左さんは、そんなことをしたらその人(泥棒)がけがをするぞと息子を戒める。そして、取りに来たら取らせてあげればいいじゃないかと。 源左さんの行動や言動は仏教でいう慈悲の心。では慈悲の心とは何だろうか。人のものを取ってはいけない、盗られた人の悲しい気持ちを考えると人のものは盗ってはいけない。 この考え方は人間社会においての当たり前のルールであり人間界における道徳である。源左さんもこの人間界における道徳なんだろうか。自分がされて嫌なことは人にしてはいけない。或いは人に思いやりを持つこと、人の過ちを許すことは人間として大切な道徳ではあるが・・・。 しかし、源左さんの言動も行動も、もはや人間界の範囲での道徳ではない。人間界で立派な人と尊敬される人徳者というイメージとは少し違う。道徳という人間界の徳を越えて、宇宙的な慈悲の世界観ではないだろうか。 芋も柿も自分の畑で育てたものなので自分のもの。土地も人間界のルールでは自分の所有物。これはあくまで人間社会においてのルールである。しかし土地も芋も柿も、もともとは大自然のありとあらゆる統合・融合・造化によって自然の中から生み出されたものであって、その自然の摂理からすると誰か特定の人のもとは言えない。 芋も柿も自分が手入れをして育てたことは確かである。しかし、もっともっと大きな大自然の摂理から見ると、水や大地の栄養分や太陽の光や恵まれた地球環境というたくさんのご縁の中から生み出されたもの。 源左さんの覚りの境地は、ありとあらゆる因縁によって、芋も柿も泥棒さんも自分自身も、そのご縁という繋がりと調和・融合の結果として現れた現象であると考えている。するとまた違ったものが見えてくる。 人間界すなわち人間という狭い次元の中での理解ではなく、宇宙全体から見ると大自然の調和の営みの一つである。 人間界という狭い世界での理解と、人間界を越えた次元で生きている源左さんの言動や行動こそが慈悲というものではないだろうか。 源左さんは至極当り前のように大自然に融合して行動しているように思えた。 人間はとかく自分たちだけがすべての中心だと捕らわれている。人間も大自然の中の一つである。人間界を離れた視点で物事を見ることができると、もっともっと楽になれるし、自然と同化してゆったりと生きられるのではないだろうか。

 

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